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(12)ヴォルカーは何処へ行ったのか
世界経済を大恐慌の淵に追い込んだ深刻な金融恐慌は、オバマ政権に厳しい金融制度改革の推進という困難な試練を与えた。この試練に立ち向かう政治的プロジェクトの切り札として引っ張り出されたのは、80歳をとっくに過ぎた老兵ヴォルカー(Paul Volcker)FRB元議長であった。
ヴォルカーは、いうまでもなくアメリカ金融界の隠れもなき超ビッグネームである。
彼は戦後の通貨・金融制度の重要な転換期に、何度も主役として登場し、歴史的役割を演じてきた。彼はケネディー政権下で財務省に入り、その後、ジョンソン、ニクソン、カーター、レーガン各政権下で財務省高官およびFRB議長として通貨・金融政策を担当してきた。
ヴォルカーの名前が世に知られるようになったのは1960年代末の、国際通貨制度の混乱期であった。ポンド危機と経常収支の赤字が引き起こすアメリカからの金の流出に悩むニクソン政権は、その対策を立案するための作業グループの責任者にヴォルカー財務次官を任命した。当時かれは、コナリー財務長官の右腕として、国際通貨問題に対するアメリカの対応策を担当していたのである。ヴォルカー・グループは金融財政政策のフリーハンドを欲しがっていたニクソン大統領に対し、金ドル交換の停止とドルの切り下げを提案した。この提案は1971年8月のニクソン声明の目玉になった。いわゆるブレトンウッズ体制の崩壊、言い換えると、固定レート制から「無制度」としての変動レートへの移行である。これによって、本当の意味で国際通貨体制は新しい動乱期に入ったのである。
金ドル交換停止は、国際通貨体制を動乱時代に誘い込んだだけではなく、アメリカの金融財政政策のタガを外してしまった。日本、ドイツの急激な経済成長と国際市場における競争の激化は、アメリカ企業の投資を抑制し、アメリカ経済は歴史的な屈折を被った。いわゆる「黄金の時代」の終焉、つまり低成長経済への転換である。他方、アメリカの経常収支の悪化と、ヴェトナム戦争を始めとする対外軍事支出の急増は相まって、世界的な「過剰流動性」をもたらした。これに原油と穀物の大幅値上げが追い打ちをかけて、世界的な低成長とインフレーションの並存状況、いわゆるスタグフレーションが顕著になった。
スタグフレーションの長期化、とりわけインフレーションの加速は、ヴォルカーのキャリアの出自であるウォール街にとって深刻な問題であった。一般に、インフレは実質金利の低下と名目金利の上昇を引き起こし、通貨価値の低下だけではなく、証券価格の下落を誘発する。これは、ウォール街にとって死活問題であった。こうしてヴォルカーは、ニクソン声明を演出したことの付けを、10年後に払うことになったのである。
ヴォルカーは、加速するインフレを抑え込むために、1970年代末に厳しい金融引き締め政策を断行した。このいわゆるヴォルカー・ショックは、世界経済を80年代初頭の同時不況に陥れたことで知られている。この政策の評価は難しいが、結果的にインフレは収束し、その後アメリカ経済はインフレ問題からほとんど解放されたことで、彼の手腕は高く評価されてきた。その限りで彼はニクソン・ショックの付けを払ったのである。このことからわかるように、ニクソン・ショックとヴォルカー・ショックは、10年のインターバルで実施された一対の政策なのである。
また、彼は、在任当時は、経済政策に関してはレーガン大統領を凌ぐとさえいわれたほどの影響力をもったアメリカ金融界の名士であるが、個人としてはグリーンスパンのような胡散臭さがなく、質素で質実な暮らしぶりで知られ、その巨躯と愛想のない風貌に似合った率直な言動も相まって、FRBを退いた後も国民的な尊敬を集めてきた。
こうしたことからも、オバマ大統領が、難航が予想される今回の金融制度改革の原案を取りまとめる経済再生諮問会議の議長として他ならぬヴォルカー元FRB議長を引っ張り出したのには、元議長がいまだに保ち続けている大きな人望と権威を利用したいとの思いがあってのことであったと推察される。事実、ヴォルカーの名前が浮上すると、マスコミはその人事を人気が急落する大統領が人気回復のために利用する客寄せパンダであると揶揄したものである。
FRB議長を退いてすでに20年以上経ち、いまや82歳に達したヴォルカーが、どんな成算があって、金融恐慌後の改革案策定に責任を負う諮問会議の議長という厄介な役回りを引き受けたのか、今となっては定かではない。確かなことは、かれがグリーンスパンのような能天気な市場原理主義者ではないこと、今回の金融恐慌をウォール街の大手銀行の愚かなまでに貪欲な利益追求とそれを許した規制緩和が引き起こした人為的厄災と考えていたこと、とくに大手銀行とヘッジファンドとの二人三脚のようなけじめのない取引関係および規制外のいわゆるシャドーバンキングの蔓延が、金融システム全体を破綻の淵に追いやる大災害をもたらしたと考えていたこと、そして、このような大災害の再発を防止するためには、かつてのグラス・スティーガル法に匹敵する思い切った規制強化、とりわけ大手銀行の自己勘定での投機取引を厳しく制限することが不可欠であると本気で考えていたことである。かれは、経済学者でも社会哲学者でもなく、豊富な実務経験を持ったプラグマティストであった。
自身の輝かしい経歴と根強い国民的名声をもってしても、このようなウォール街の大掃除をめざす抜本的な改革で、ウォール街のカネに汚染された議会の承認を得ることが容易ならざる作業であることは、ウォール街と監督機関の両方で要職を歴任してきたヴォルカーは、百も承知であったであろう。しかも、自らが率いることになった諮問会議の実務の中心になったのは、骨の髄まで市場原理主義に染まったサマーズ元財務長官と、ウォール街の根本的な利益に手をつける気など毛頭ないガイトナー現財務長官(元ニューヨーク連銀総裁)のコンビであることを考えると、議長としてのかれの立場がきわめて脆弱で、かれの信念を貫くことが不可能に近いことは始めから明らかであった。
それでも、ヴォルカーの名前が浮上した時、その名前に期待する向きはあった。例えば、金融行政とウォール街の裏面に精通し、ウォール街の名士たちに対しては概して辛口の評価で知られるマーティン・マイヤー(定点観測・バックナンバー(7)を見られたい)が、ヴォルカーが登場したことでオバマ改革へのかすかな期待を滲ませる発言をしていたことは、いまだに筆者の記憶に残っている。
しかし、ヴォルカーがオバマ大統領と並んで、サマーズやガイトナーを従えて記者会見に登場するメディアの写真には、常にぬぐいきれない不協和音が漂っていた。ヴォルカーが持ち前の愚直さで改革の必要を強調する傍にたたずむサマーズやガイトナーの表情は、どう見ても老指揮官に忠誠な将校のものではなかった。オバマ大統領は、ヴォルカーが改革案に盛り込むことを目論んだ、銀行の自己勘定取引に対する規制を「ヴォルカー・ルール」と名付けて国民の耳目を引いた。「ヴォルカー・ルール」の呼称は学術論文にまで広がり、世界的に知れ渡ったが、この老指揮官が自らの信念を実現するのにふさわしい補佐役は与えられなかった。なお、ヴォルカー・ルールについては、本ホームページ翻訳資料紹介欄の「アメリカ金融制度改革におけるヴォルカー・ルールの意義」を参照してほしい。
その後の議会での駆け引きが続く中で、例によってウォール街のロビーたちの暗躍が活発化し、改革案の法案化作業の取りまとめを担当したドッド委員長の老練な画策によって、ヴォルカー・ルールは最終的に形骸だけの、実のないシロモノに作り替えられて決着が図られた(本コラム欄(10)「ウォール街のクモの巣」を参照)。オバマ大統領は、ヴォルカーを見捨てただけではなく、中間選挙にも大敗を喫して自らの政権基盤を失い、その後さらに、公約であった富裕者増税も棚上げにせざるを得なくなっている。
2010年7月11日付のニューヨークタイムズは、同紙の有名な経済記者・ルイス・ウキテル(Louis Uchitelle)の執筆した長文の記事で、ヴォルカーのその後の消息を報じた。それによれば、ヴォルカーは、自らが監督機関の要職にあった時代もその後にも、金融自由化の流れにもっと断固として抵抗しなかったこと、無原則な金融自由化が大手金融機関をここまで腐敗させてしまったことに十分な理解と警戒心が欠けていたことを今も悔やんでおり、今回の改革が金融危機の再発防止には明らかに不十分で、曖昧な条項と危険な抜け穴を残していると述懐している。かれはその後、夏季に恒例のサーモン釣りを楽しむためにカナダに向けて出発したそうである。かれがもう一度、金融制度改革の歴史的転機に主役として表舞台に登場することは、おそらくないであろう。
「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」ということであろうか。

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